東京高等裁判所 昭和59年(ネ)2935号・昭59年(ネ)2900号・昭59年(ネ)2894号・昭59年(ネ)2937号 判決
二 ≪証拠≫及び弁論の全趣旨によれば、戦前戦後を通じて在日華僑の間で行われてきた講(無尽)については、おおよそ次のような特徴があることが認められ、この認定に反する≪証拠≫は前掲各証拠に照らして措信せず、他にこれを覆すべき証拠はない。
1 講の目的は、親が外国人であるということ等の制約によって金融機関の信用をえにくいことから、事業を起こす等のために必要とされる資金をこれにより調達することにあって、そこには子相互の懇親のためとか資金の融通のためとかといった色彩は極めてうすい。会頭金も、少なくとも本件の講当時一口五〇万円か一〇〇万円ともいわれ、かりに一〇〇万円とすれば二四口ならば二四〇〇万円、五〇万円としても一二〇〇万円という資金が無利子で親のもとに集められ、その使用に委ねられることとなる(もとよりその会頭金は親によって落札会毎に落札者に順次返還されるべきものである)。
2 講の主体は親であり、専らその信用力によって子を募集するのであって、子の人数、口数、会頭金額等の講の規模もこれによって定まる。子も親の信用力に頼って参加するのであって、子同士は互いに資力等を知らず、面識すらない場合も珍しくなく、その氏名、住所、口数等の資料ないし情報は親だけが独占する。
3 講の運営は親の責任であり、親は、前記の会頭金等のほか一口あたりの掛金額を定め、会日に会場を設営して講会を開催し、子に飲食を提供するなどの接遇をし、会を主宰して入札の方法により最高利息提供者を落札者と決定して落札金を支払うなどの義務を負う。この落札金の中には親が返還すべき会頭金のほかに掛金(未落札者はその時の落札者の提供する利息を控除されることは前述のとおり。)が含まれ、その集金、計算等も親の行うべきところである。
4 講の残務処理も親の責任であり、次のとおりである。
(一) 親は、講の終了(満会)に至るまでの間に、子が掛金を掛けないという事態が生じた場合には、その立替払をしてでも講の存続ないし清算をはかり、他の子に迷惑が及び、延いては自己の信用が失墜することのないよう手立てを講ずる。
(二) ところで、親が行方をくらます等して落札会を開催せず、ために会頭金の返還もできず、掛込金や掛戻金の集金もなされずに講が終止した場合(このようなことも昭和五八年位までは年一回位はあったとされる。)は、たとい未落札者である子が会頭金の返済等を受けられずに損失を蒙ったとしても、あくまで親を追及することはともかく、原則としてあきらめるより外なく、親に代って既落札者から未払掛戻金等の利得分を回収して自らの損失を補填するようなことはしない。
もっとも、つぶれた親からの委任状に基づいて、個々の子が、もしくは債権者委員会等の名称を以て複数の子が、既落札者の利得分を回収し、損失を蒙った未落札者へ分配する等のことが行われることはあり、それは親の権限の代行として許されるものとされ、また場合によっては、子全員の同意のもとに事実上右と同様のことが行われることもある(本件の場合も、一時債権者委員会なるものが組織され、一部の子から回収した金員を控訴人を含む本件の講の子らに分配したことがあるが、これは当初林朝日の諒承のもとになされたもので、その後子同士の間に紛議が生じ、債権者委員会の代表者の死亡等のことがあって、このような体制のもとでの処理の基盤が失われ、本訴に至ったものである)。
(三) 右のような親からの授権もしくは子全体の合意に基かずに、子から子への請求延いては訴求ということは、名目が何であれ過去に一件の例もなかった。それは、子は専ら親に対してその信用力に依拠して出捐したのであって、親がつぶれたことによって生ずる危険負担は子自身が負うべきものであるとの認識を講に参加する当初より共有するからにほかならない。子から子への請求をするのは非常識であるとの空気すら華僑社会の中にはある。
三 本件の講が在日華僑間の講であることは弁論の全趣旨によって認められるところ、本件の講についても、右二においてみた諸特徴と異るものを認めるべき証拠はなく、これに右一にみたところをあわせ考えると、本件の講の法的性質は、親が自己の事業として自己の責任で運営するいわゆる非組合的講の一種で、親と各子の間の消費貸借に近似する契約関係の集合によって成り立っているものであって、子相互の間には何ら直接の法律関係はないというべきであり、もとより運営において多数決の原則が行われているわけではなく、そもそも構成員の変更などという観念を容れる余地もないのであって、凡そ団体としての組織の実体及び規約(明文にせよ不文にせよ)を備えているものとは到底いえない。
これによってみれば、本件の講が権利能力のない社団ということはできないから、権利能力なき社団であることを前提とし、これに代位する控訴人の主位的請求は、すでにその前提を缺き、本件の講に当事者適格がないから却下するのほかなく、また第二次請求は次に述べる理由により、更に第三次請求は未落札者と落札者との間には掛金をめぐってにせよ直接の法律関係、端的に控訴人主張の消費貸借関係は存在しないから、所詮排斥を免れない。
そこで、第二次請求についてであるが、叙上の本件の講の実体及び法的性質からすれば、会頭金はもとより掛金もまた子の親に対する貸金類似のものであり、親は親固有の権限と責任に基づいて、これらをすべての子から収受した上、落札者に対し落札金として返還ないし配分をすべきものであるから、親の事由によって講が開催されず、満会に至らずして終止した場合、たとい未落札者に既払の会頭金及び掛金につき返還ないし配分をうけられぬ事態が生じ、既落札者に掛戻金の未払という事態が生じたとしても、直ちにこれを前者の損失は即ち後者の利得としてその間に因果関係を認めることはできない。蓋し、そこには右にみた親固有の権限と責任ある行為の不作為が不可避的に介在するからである。
のみならず、さきにみたところよりして、どんな名目であれ、子が子に対して請求延いては訴求するが如きことは、在日華僑間の講においては、戦前はもとより戦後も一貫して許されないとしてきたことが容易に看取されるのであって、これを当該社会における慣習としてその法的規範性を肯認するのも、あながち不当とはいえない。
従って、控訴人の第二次請求は、本件の講についての右のような実態をふまえた法的性質からしても、また慣習法からしても、これを認めるに由なきものといわなければならない。
(高野 南 成田)